月の都の歴史

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「月の都 千曲」と「月の都 さらしな」

「月の都 千曲」

「月の都 さらしな」

「月の都さらしな」は、さらしな地域が古代から日本人の憧れの地として、「月の都」と歌に詠まれ、称賛されたことに由来する歴史的な名称です。「月の都 千曲」は、千曲市の魅力を広くアピールするため、日本遺産として認定されたストーリーの名称です。
古代から憧れの地とされてきた「さらしなの里」は、更級(更科)郡、冠着山(姨捨山)の麓一帯を指します。現在では、更級郡はなくなってしまいましたが、古代には東山道の支道が通り、千曲市八幡字郡地籍周辺に更級郡衙(古代の役所)が置かれたと推定され、当時は京の都から役人らの往来が盛んであったことでしょう。

月の都の歴史

千曲川

現在の千曲市一帯が「月の都」と文化庁から認定されたのは、市の中央を流れる千曲川の西側が「さらしなの里」(旧更級郡)と呼ばれる地域であることが大きく関係しています。さらしなの里のシンボルである冠着山(姨捨山)にかかる月は、千年以上前からたくさんの和歌に詠まれ、さらしなの里は「月の都」として日本人のあこがれになりました。
さらしなの里には、冠着山や鏡台山、姨捨の棚田、千曲川といった月を美しく見せる舞台装置がそろい、古代から都とつながっている道(東山道の支道、冠着山の尾根筋の古峠越え)が通っていたことも人々を引き寄せた理由です。
室町、江戸時代になると、千曲川を挟んで冠着山の対岸にある山が「鏡台山」と名づけられ、さらしなの月が上る舞台の山と称賛されるようになりました。「姨捨の棚田」も盛んに開発され、水を張ったたくさんの田に映る月の光景がイメージされ、ついに「田毎の月」という言葉を生みだしました。そうして「月の都」は重層的な美しさを放ち、一層多くの人たちのあこがれとなりました。

月の都の文化

千曲市に現われる月へのあこがれは、たくさんの和歌や俳句を生みだしました。
和歌や俳句には心の真実が込められており、さらしなの月に寄せられてきた人々の思いに触れることができます。

 

わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て   よみ人しらず

わが心慰めかねつさらしなや
     姨捨山に照る月を見て

           よみ人しらず

さらしなの里の月を詠んだ最も古い和歌。今から千年以上前の平安時代に詠まれました。
念願かなって姨捨山(冠着山)にかかる月を見ているが、わたしの心はどうにも慰めることができない―という意味です。
この和歌は年老いた母親を山に捨てる悲しい棄老物語を思い起させるだけでなく、自然災害や病気、身分差など自分の力ではどうしようもできないことが多い時代なので、多くの人が自分の慰められない気持ちを重ねました。そしてさらしなの月をどうしても見たいという人が増えていきました。

さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夕暮れ   豊臣秀吉

さらしなや雄島の月もよそならん
     ただ伏見江の秋の夕暮れ

              豊臣秀吉

この歌は戦国時代、豊臣秀吉が天下人となった後に造った伏見城(京都市伏見区)で詠んだものです。
伏見城で見る月は月の名所のさらしなや、宮城県の松島(雄島)に勝るとも劣らず美しいと詠み、さらしなの月をライバル視しています。
伏見城のあった丘の下には巨椋池(おぐらいけ)(諏訪湖の3分の2の大きさ)と呼ばれた京都最大の湖があったので、さらしなの里の千曲川が月の光を美しく照らし上げるように、巨椋池の水面も月の光を反射し、美しい闇と光の空間を秀吉に見せていたと考えられます。

俤や姨ひとりなく月の友   松尾芭蕉

俤や姨ひとりなく月の友  松尾芭蕉

江戸時代には、松尾芭蕉がさらしなの里の中秋の月を見に来てこの俳句を作りました。
姨捨山(冠着山)と長楽寺(千曲市八幡)の巨岩「姨石」を見て詠んだと考えられていますが、冒頭に紹介した「わがこころ慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て」の和歌を踏まえたものです。
俳句の「姨」は、さらしなの里への旅の前に亡くした自分の母親が重ねられているかもしれません。「なく」がひらがななのは、「泣く」と「亡く」の両方のイメージを感じてもらおうとしたとも考えられます。

月の都の棚田

姨捨の棚田

日本には山がたくさんあるので、棚田は各地にあります。その中で「姨捨の棚田」が特に注目されたのは、「『田毎の月』が見られる棚田」と多くの人が思うようになったからです。イメージづくりの大きな働きをしたのが、江戸時代の歌川広重の浮世絵ですが、どうして「田毎の月」と言えば「姨捨の棚田」となったのか。
これも東山道の支道が「姨捨の棚田」近辺を通っていたことが理由と考えられます。この道は和歌や俳句を詠む人たちもたくさん歩いていたので、棚田の景色も見ながら面白い和歌や俳句を作ろうと考えたはずです。今では風景の絵というと目の前の景色をそのまま描くのがふつうですが、江戸時代まではいろいろな角度や歩いて見えたものをまとめて一枚の絵にするのが一般的だったそうです。
水を張った「姨捨の棚田」を歩いていると、確かにそれぞれの田に写っている月を見ることができます。「田毎の月」という言葉や絵の表現は、昔の日本人のものの見方を濃く反映したものなのです。