千曲市の魅力を音楽で
さらしな棚田バンド 中村洋一さん 森政教さん
日本遺産に認定された千曲市には、さまざまな文化が根付いています。さらしな棚田バンドは「音楽」によって地域の良さや魅力を伝え振り返る機会をつくり続けています。
なぜ曲をつくり演奏し音楽によって地域を盛り上げようとしているか。千曲市の風景を歌った曲「棚田姫」はどのような経緯で誕生したいのか。さらしな棚田バンドの森政教さん、中村洋一さんにお話を伺いました。
月の都へのおもいを語る
(中村さん)
僕たちは2007年にバンド活動をスタートしました。子どもが同じ学校に通っていたのでPTAの音楽会や子ども会でたまに演奏することがあり、そこからバンドとしてやってみようと。ただ、メンバーは固定ではありません。リーダーもいないんです。そんなゆるさが、10年以上続いている秘訣かなと思います。
(森さん)
僕も中村さんも更級小学校の出身です。今でも集まれば校歌を歌いますし、そういった意味ではみんな郷土愛があるんですよね。
ただ、じゃあ「地域のことが好きですか?」と聞かれると、これは答えるのが難しい。
なぜなら毎日、「この地域が好き」「この地域を愛している」と言っているだけだったら、長く続かないと思うんです。どうしてここがいいのかと言えば、ここで生まれ育ち、僕らがここに今もいるから。この地域でニコニコしながら生きていければそれが最高なんじゃないかなと。
地域の良さや魅力を発信し続ける一方で、それはきれいごとだけでは続かない。単純に「好き」という言葉では収まらない地域への思いが、お2人の言葉からは感じられます。
さらしな棚田バンドは、地域の行事やイベントなどで演奏することを主な活動としています。活動を続ける中で、ある人との出会いがバンドの活動にとって大きかったと語ります。
ある年に、千曲市の漬物屋 木の花屋さんが企画し、姨捨の長楽寺で、ギタリストの吉川忠英さんがライブを開催することになりました(詳細は木の花屋 宮城さんの記事をご覧ください)。そのときに、僕らはPAとしてライブをサポートし吉川忠英さんと出会いました。
吉川忠英さんは、1970年代から大瀧詠一、松任谷由実、夏川りみなど数多くのアーティストのレコーディングやコンサートをサポートしてきた日本を代表する一流のギタリストです。一般には知られていないかもしれませんが、僕らにとっては神様みたいな存在でした。
忠英さんと本格的に親交が深まったのは7,8年前くらいです。最初はPAとしてライブに参加していたのが、あるときから長楽寺でのライブで前座として歌ったりするようになりました。
吉川忠英さんとの出会いが、さらしな棚田バンドの活動の幅を広げるキッカケに。その後、ある曲を一緒につくり歌うことによってその関係性はさらに深くなっていったといいます。
長楽寺は檀家さんがいないお寺だと知った忠英さんは、2012年頃からほぼ毎月1回、満月ライブを開催し、経費を除く売り上げを長楽寺にお布施として渡していました。ライブを通して「これだけの月を見せてくれる場所は日本中他にない」と忠英さんは思うようになり、「子どもからお年寄りまで歌える唄」を作りたいということで、一緒に曲を作ることになったんです。
作詞は信州さらしな月の里唄実行委員会の並木さんにお願いし、私たちは忠英さんと一緒に演奏し歌うことになりました。あのときは相当練習しましたね(笑) こうして完成した「棚田姫」という曲をつくり歌うという経験を通して、忠英さんのすごさを感じると同時に距離が近くなりました。
いまでは他の団体では考えられないくらい仲良くさせていただいているので、たまにその光景を見た忠英さんのファンの方が驚いています(笑)
共に曲を作り演奏する経験を通して忠英さんとより親交の深くなった、さらしな棚田バンドの皆さん。森さんと中村さんが忠英さんのお話をするときの楽しそうな様子が印象的でした。
最後に、さらしな棚田バンドのこれからの活動についてお聞きしました。
(森さん・中村さん)
これといって活動が決まっているわけではありませんが、そのときそのときで楽しくできることをやっていけたらと思います。あと自分たちの場合は考えることよりも行動することが強みだと思っているので、最近ではあんずの木でできたウクレレを作ったり、棚田米を加工して美味しいものをつくったりなんてこともしています。これからも、地域の良さや魅力を活かし、そして楽しく発信することを続けていきたいですね。
現在、新型コロナウイルス感染防止のため長楽寺での満月ライブは一時休止しています。
活動が再開したらこちらのサイトでも情報を発信していきます。