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国府木簡は疫病対策の指令だったか
千曲市屋代で31年前、古代信濃国の初期国府から、更級郡をはじめ周辺の郡役所に出された国府木簡(現在は長野県宝)が大きな話題になりました。ただ、木簡にどんな指令が書いてあったかはわからなかったのですが、発掘史料の調査整備研究が進み、天然痘など当時見舞われた疫病対策に関連するものであったのではという仮説が今年、発表されました。国府木簡が出土したところは、神に祈る斎場だったそうです。
現在は、高速道路の長野道と合流する更埴ジャンクション直前の上信越道の地下で、埋め戻されていますが、この場所からは南に冠着山(姨捨山)がはっきり見えます。
国府は都の役人が派遣されるところだったので、都人は越えて来た冠着山の右手にある峠(古峠、東山道の支道)を見やり、夜は冠着山にかかる月を眺めていたでしょう。「月の都」はじまりの歌「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」(古今和歌集)は、この情景や情報もふまえ詠まれたかもしれないと想像しました。詳しくは次をクリックしてお読みください。(さらしなルネサンス・大谷善邦)


