姨捨の中秋名月を詠んだ芭蕉「俤句」
日本遺産「月の都」千曲市のさらしな姨捨は、千年以上前から苦しみや悲しみを嘆く格好の場であることについて、長野市民新聞で連載を書くことになりました。さらしな姨捨は「癒しの里」であり、「若返りの里」でもあります。そうした里の魅力を解明する一番の材料となったのが和歌や俳句で、日本人はこの詩形があることで嘆くことを楽しんできたと感じており、「嘆きの美楽(びがく)」という切り口で毎月第Ⅰ火曜日に書いていきます。初回は、2026年9月1日。ここに新聞社の了解を得て、紙面とともにアップしました。今後の各回の記事は、紙面掲載後しばらくしたらネットにも載せていきます。2回目以降は次のアドレスでご覧ください。https://www.sarashinado.com/category/nagekinobigaku/(さらしな堂・さらしなルネサンス 大谷善邦)
「俤句」に亡母の面影 姨捨の中秋名月芭蕉が詠む 千年を貫く嘆きの美楽1
江戸時代の俳人松尾芭蕉が、さらしなの里姨捨(現千曲市、旧更級郡)の中秋名月を見に来て詠んだ句(以下俤句)があります。
俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友
後に「更科紀行」のタイトルでまとめられる芭蕉の紀行文学の中心的な位置を占める句です。ただ解釈は難しいとされ、読み解きが進んでいないので、自分なりの解釈を加えています。この句の「姨」に芭蕉は、山に捨てられた老婆と自分の母親を重ねていると思います。芭蕉の母親が亡くなったのは、さらしなへの旅(貞享5年、1688年)の5年前(天和3年)と近いのが気になるのです。
芭蕉は伊賀上野(現在の三重県伊賀市)の下級武士の家の生まれで、父親は芭蕉が12歳のとき亡くなり、母親の手で育てられました。芭蕉は領主の一族である藤堂家に奉公に出て、藤堂家で俳諧の精進を続けていたのですが、29歳のとき江戸に出て、俳諧の芸術性を開花させていきます。
母親は、芭蕉が大勢の門人を抱えるほどに力をつけた40歳のとき亡くなります。死に目に会えませんでした。
帰郷を果たしたのは、母の死の翌年の秋、後に「野ざらし紀行」にまとめる旅ででした。「野ざらし紀行」には、帰郷したときに、母親の遺髪を手にして詠んだ句が載っています。
手に取らば消えん涙ぞあつき秋の霜
季節は晩秋、芭蕉は感謝、申し訳なさなどさまざまな嘆きの感情が去来して熱い涙を流したのです。母親の髪は、手から消えてしまうほどのはかない白髪だったのでしょう。
特にこの「涙」という言葉が母の死から「さらしなの里姨捨」への旅を貫く心のキーワードだと思います。芭蕉はさらしなの里で月見をして江戸に戻った後、「更科姨捨月之弁」という俳文を書くのですが、強烈に「涙」を意識させる文言が出てきます(抜粋、「涙」の傍点は大谷)。
(冒頭略)ことし姨捨の月見んことしきりなりければ、八月十一日美濃の国をたち、道遠く日数少なければ、夜に出て暮に草枕す。思ふに違わず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡といふ里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじう高くもあらず、角々しき岩なども見えず、ただ哀れ深き山の姿なり。慰めかねしと伝へけむも理り知られて、そぞろにかなしきに、何ゆへにか老ひたる人を捨てたらむと思ふに、いとど涙落ちそひければ
俤や姨ひとりなく月の友 芭蕉
ことしは姨捨の月がどうしても見たくなり8月11日、岐阜県を旅立った。中秋15日に間に合い、月に照らされた姨捨山を眺めると、古今和歌集で「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」と詠んだ平安時代の人の気持ちがよくうかがわれた。なぜこんなところに老婆を捨てたのか、涙が止まらない…その上で「俤や姨ひとりなく月の友」の句を作ったと表明しているのです。
私には、母親の遺髪を手にしてこぼした芭蕉の「涙」と、さらしな姨捨で月見して流したこの芭蕉の「涙」の熱さが、つながっているように思えるのです。「俤」には亡き母の面影も重なっていると思います。姨捨山の異名を持つ冠着山の頂上を見やりながら謡曲「姨捨」に登場する老婆の姿を思い描いた可能性があります。
「姨捨」は中秋、都の人がさらしなの月を見るため姨捨山にやってきて頂上で女性に会う場面から物語が始まります。この女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねると、古今和歌集の「わが心慰めかねつ…」の和歌を持ち出し、「私の立っているこの場所」と教えます。この後この女性が実は捨てられた老婆で毎年中秋、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていると明かし、月の光のもとで舞います。月が隠れると老女も姿を消します。
芭蕉の母は山に捨てられたわけではありませんが、世話になった母を故郷に残したまま長く会わずにいたので、心のうちでは「捨てた」と後悔していたかもしれません。ですから、この謡曲に登場する老女を母親に重ねたとしても不思議ではありません。作者の世阿弥も芭蕉と同郷の出身。芭蕉にとって世阿弥は約300年前の故郷の偉人なので、世阿弥のことも謡曲「姨捨」も知っていたでしょう。
以上のことから俤句の「なく」には、捨てられて月の光を浴びながら1人泣いている老婆と、すでにあの世にいる年老いた母親の2つのイメージが重なり、つまり「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められている―芭蕉がそう意図したか分かりませんが、そのように読んだ方がこの句の味わいは増します。
この句をものにしたとき芭蕉の心は喜んだはずです。芭蕉はさらしな姨捨に来て嘆くことを楽しんだのです。心ゆくまで嘆くことができた喜びが「更科姨捨月之弁」や「更科紀行」を書かせたのではないかと考えます。翌年の春から始まる「奥の細道」の旅も、さらしなの里での中秋名月体験と俤句を詠んだことによって自信を深め出立できたのではと想像します。



