千曲商工会議所 日本遺産シリーズ②
今回は、日本遺産に認定された「月の都千曲」のサブタイトルにある「摩訶不思議な月風景「田毎の月」について、実際、日本遺産の申請に携わった、担当者の千曲市歴史文化財センターの平林氏に寄稿していただきました。
第2回 田毎の月は「摩訶不思議」?
執筆:千曲市歴史文化財センター 平林 大樹 氏
1「摩訶不思議」を使ったワケ
令和2年6月19日、千曲市は、全国で92番目の「日本遺産」に選ばれました。タイトルは「月の都千曲」、サブタイトルには「摩訶不思議な月景色「田毎の月」」という表現を用いています。
「摩訶不思議」とは、「非常に不思議な」という意味の慣用句です。摩訶とは、摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)など、仏教で多く使われる言葉で、「大いなる」とか「非常に」といった意味があります。子供の頃に「ドラえもん」をみていた方は、放映初期の主題歌のフレーズ、「奇妙 キテレツ 摩訶不思議~♪」になじみがあるかもしれません。
いささか誇大広告であるとの印象を持たれる方もいるかと思いますが、日本遺産のタイトルは、文化財の正確な名称というよりも観光的なキャッチコピーという性格を持っています。あまたある申請団体の中から審査員の目を引き、認定を得るためには不思議な光景であるという点を強調し、他の地域と差異化を図る必要がありました。
2「摩訶不思議」を考える
そもそも、水田ごとに月が映る摩訶不思議な現象は実際におこるのでしょうか。一般的に二通りの説明がされる「田毎の月」について、それぞれの背景を考えてみます。
●解釈① 同時に複数の月が水田に映る。
歌川広重の浮世絵「信濃更科田毎月鏡台山」は、「日本遺産 月の都千曲」のシンボル的な存在として、チラシやパンフレットなどでくりかえし掲載されています。ここにはすべての田んぼに月が一度に映る様子が描かれていますが、結論からいえば、一人の人間が同時に複数の月が見ることができるという現象は、通常は物理現象として成立しません。
2013年度から屋代高校と屋代高校附属中学校の天文班の生徒たちが、棚田に鏡を置いて「田毎の月」を出現させるというユニークな取り組みを開催し、新聞にとりあげられるなど注目されました。この取り組みの素晴らしいところは、科学的な態度で歴史的な風景にのぞむ姿勢です。浮世絵に描かれた世界を現実世界にあらわす取り組みは、結果的に特殊な仕掛けを作らないと、「田毎の月」が出現しないことを証明したわけです。
ところで、月が一度に映る構図は、広重の浮世絵がはじめてではありません。「信濃更科田毎月鏡台山」が含まれるシリーズ「六十余州名所図会」では、旧国で1か所代表的な景勝地が描かれていますが、広重自身は現地を訪れておらず、各地でつくられていた一枚刷りの版画や名所図会の挿絵を種本として、大胆な構図を描き起こしたことがこれまでの研究からわかってきています。
姨捨でも、江戸時代の後期を中心に長楽寺一帯の宣伝のために境内周辺を描いた刷り物がいくつか作られました。戦国時代にすでに知られていた田毎の月に長楽寺を組み合わせることで「姨捨山」としての一層の宣伝効果を狙ったものと考えられますが、刷り物の中には、すべての田んぼに月に映るように表現したものがあります。それが広重の浮世絵にも採用されたのでしょうか。
●解釈② 水田の間を移動することで水田ごとに月が映る。
千曲市歴史文化財センターでは、武水別神社の神官をつとめた松田家から寄贈された数百点の古文書を所蔵しています。その中には、「中秋姨捨山賞吟」という資料が含まれています(『市誌研究ながの』28)。これは、江戸時代前期(1740)に、松代藩士の入貞営によって作成された最古級の長楽寺周辺の観月の記録で、 田毎の月についてつぎのように書かれています。
田毎の月とは、水面すべてに月影が映るのではなく、一つ一つの田に至り、その田ごとに映る月影のことをいうのである。おそらく好事者が田毎の月の名を称したのであろう。
入貞営は、和算家でもあったので、合理的思考の表れととらえることができますが、江戸時代前半にそうした見方が存在していたことを確認できたことは重要です。では、棚田の中を歩きまわるような場面は実際にあったのでしょうか、下の地図は、江戸時代の八幡村の絵図をもとに、現在の棚田の位置に重ね合わせたものです(『姨捨棚田の文化的景観歴史的調査報告書』)。JR篠ノ井線の一本松踏切から姪石苑の脇を下る小道が、江戸時代から存在していたことがわかります。この道こそ、一本松峠→大池→姨捨→武水別神社脇というルートを通り、稲荷山地区へと向かう、善光寺道につぐ主要街道でした。田植えの時期に、棚田の中の一本道を下っていけば、風流人に限らず、水面に映る月の姿を見ることができたわけです。 道と棚田の関係に言及した研究は非常に少ないのですが、私は、更級から松本へと抜けるメインストリートに棚田が立地していたことも、「田毎の月」を全国区にしたひとつの理由ではなかったかと考えを巡らせています。
おわりに
「摩訶不思議」と形容した「田毎の月」について、二つの解釈を整理してみました。
江戸時代でも、現地を歩いた人や地元の人は、同時に複数の月が水田に映る表現が虚構であることをわかっていたでしょう。一方、版画や紀行本などの媒体をつうじて「田毎の月」を知った江戸や京の住人は、実在する光景であると信じていたのかもしれません。
「田毎の月」には、科学的な視点によるウソ・ホントだけでは完結しない、当時の文学・歴史的背景が含まれています。歴史史料を正しく分析し、「摩訶不思議」に迫る研究を続けていきたいと考えています。